スタート前の打ち合わせやカメラテストの際に「僕は小心者で緊張しいなんですよ。途中で中座してトイレに立てこもったらごめんなさいね」と、開発さん。
実際は、司会を務める「釜川から育む会」の代表(中村)が中座してトイレへ行くというハプニングも。失礼しました!
そんな小ネタは横に置いて、講義内容の振り返りです。
冒頭で、今回タイトル「アート・アクティビズム」についてこんなお話がありました。
「アクティビズムは、積極行動主義。そこにある問題に対して、そのつど、抽出して作品化する。右翼的でも左翼的でもない。
かと言ってニュートラルということでもない。
その都度「必要なこと」を作品化する行為」だと捉えている、と。
1プロフィール的なお話
◎開発という名字についてについて
明治初期「education」をどう訳すか、福澤諭吉(「開発」だ!)と、森有礼(「教育だ!」)と、論争があった。同級生たちからも本名ではないと思われていた。
◎大学生の頃から今までの「収入」と「やる気」の相関を振り返るグラフを披露。経済状態とやる気が一致してくるまで20年かかった。「N Y滞在から帰国して、友達の家の「キッチン」に居候。友達が仕事から帰り冷蔵庫を開けるたびに、ドアが僕の足に当たる!」「震災直後・・自腹で活動、経済的に大変だったけど精神面が充実
していた。
◎発表する場所の変遷
学生の頃:画廊、美術館だけ→次第に広がりを。ネット上→美術館以外のスペース→学校→地域→そして震災後にまた新たな広がり。
◎そもそも美術とは?アートとは?
「僕は、あまり小難しく考えていなくて、スランプになった時は、手を動かす。そこが原点、立ち戻る場所」
2 ライフワーク
人に見せる必要もなく、ただ、日々やっていること
◎ラインドローイング:暇な時間にラインを描き続ける。これは苦しくなってやめた。
◎レシート日記:レシートをノートに貼って、朝、夕、日記をかく。
◎自分の顔を写真にとる。久しぶりに会う人に老けたねえ、と言われる。会っていない時間の顔写真を見せるために撮っている。
3 アートワーク
多彩&多才な作品やパフォーマンス、アートプロジェクトの話を、大学時代から一気に話してくださいました。
◎バブルが弾けて以降は、展覧会よりワークショップに予算がつくように。
「日本の美術教育の中で「ちょっとおかしいな」と思うことを、子供たちが少しでも回避できるようなワークショップを考えて実施したい」
◎まちおこし:地域と関わる。
寂れた町にアーティストが入って何かやってくれませんか、というお誘い。
・2001年から始めた「39アート」
・七夕オルグ(仙台)さくらT V (子供たちと)青空クローク(ドイツ)
・ドラゴンチェア(府中市)
ドラゴンの頭を作り、それにつながる「椅子」を子供たちがダンボールで作り、どんどん繋げていく。市内の小学校を巡回して、10年も続いている。
「僕は、大人数でひとつの大きいもの作ることができない。一人でちゃんと作りたい。これは、「個」でちゃんと作る。そしてそれが繋がると大きな作品になる、というプログラム」
・かまぼこフェイス
・100人先生(三宅島などで開催)
「僕が作らなくても、僕が介することで、地域の人たちが動く、作る、その環境や仕組みを作る」
・モグラT V:収録スタジオとして土木作業で地下室を作った。
・種子島「ロケットマップ」
・東京の八王子で。小学生の作品を大学に、大学生の作品を小学校に。交換して1年間、見せ合う試み。
4 アクティビズム
震災前は、稼げないアーティストと稼げるアーティストが混在していたと思う。
震災直後、明確に分かれた。コマーシャルギャラリー系、 アクティビズム系。
◎デイリリーアートサーカス
被災地・仮設住宅を回る。福島の人と出会い「福島にきてくれないんですか?」と問われた。
飯館村には「どうしてこんなに悲しいんだ」という現実があり体験があった。政治家こそ来てほしい。
◎政治家の家
政治家の家をつくり、ひとりひとりホームページを見て招待状を出した。来てくれるとは思っていない。僕の招待状を見たことで、何かこうざらりとした気持ちを感じたりしてくれたら、それでいい。クレームの電話もいくつかあった「うちの先生に、なんという失礼なものを送ってくるんだ!」。
政治家の家を作ったことで、地元の神楽を復活させようという人たちに呼ばれたり、海沿いの人たちの言葉を集めるプロジェクトをビデオで撮ったり、南相馬で「うまままつり」を始めたり、一回、地域に入ったことで、そこからまた必要とされることが生じて、僕がお手伝いしていく。そんなスタンス。
◎遊べる「やきもちシェルター」
いざ!という時のシェルターを兼ねる遊具を公園に作る計画。建築家や物理学者の先生に相談しながら計画を進め始めた。この話、一般の人に聞いてもらうのは、今日が初めて!
僕のアクティビズムの活動の締めとして、このことをお伝えしたい。
◎最後に
20年前に、今のような自分になろうとは思っていたわけではない。とにかく、作りたい!という欲求があって、お金がないから、パフォーマンスだ!となって、誰かを助けたい!「というモチベーションがあって、売れたい!というところから離れながら、いろんなものにぶつかったり、人との出会いがあったりして・・・、そして、今日のタイトル「アート・アクティビズム」という立ち位置にいます。
中村からの「作りたいものを作っていた初期から、まちづくり、教育、東北への関わりへと移り変わる中で、考え方の変遷はありましたか?」という問いに、開発さんは、例えば・・と前置きして、こんなことを話してくれました。
「福島のプロジェクトは、アーティストとして我を通すのではなく、相手の話を聞くことから始め、それが中心です。例えば、地元の人たちが演じる獅子舞は、それを被って歯で押さえていて、けっこう大変。それを改善するために「発砲しスチロールで作りましょうか」と・・・。アーティストとしてではなく、地域の人が普段抱えている困りごとや疑問が出発点」
今年度、視聴やSNSでの発信にお付き合いくださった皆様も、ありがとうございました。
来年度のカマクリの活動にもぜひ、ご注目ください。